廊下に掲示してある運動会の絵をみると、子どもが何を見ていたのか、何を考えていたのかが何となく伝わってきます。
よさこいを踊ったことや玉入れをしている様子を描いた中に、学校の絵があったり、応援していると思われる人があったり、近くにいた友だちを描いている子もいます。
こうした子どもの発想は、その子が日常的に見ている、感じているものから浮かんでくる場合もあれば、大人の働きかけがきかっけとなって育まれる場合もあります。
例えば、人物の描く際、輪郭線を鉛筆で書くときと、クレヨンで描くときでは、人物の動きの表現が違ってきます。
鉛筆だと、初めに描いた線がイメージと違ったときには、消しゴムを使うことで書き直しができます。
クレヨンだと、直しがきかない分、ふんぎりをつけて線を描くことができます。
鉛筆やクレヨンのどちらが良いとかいうことではなく、
それぞれの良さがあり、それをどう生かすかという着眼点が大切だと思います。
こうした子どもの発想は、その子が日常的に見ている、感じているものから浮かんでくる場合もあれば、大人の働きかけがきかっけとなって育まれる場合もあります。
例えば、人物の描く際、輪郭線を鉛筆で書くときと、クレヨンで描くときでは、人物の動きの表現が違ってきます。
幼少期の子どもは、自分が感じたことを素直に表現できる力があります。
特徴的な傾向は、自分、太陽、地面を描くことです。
この視点でみると、大人が働きかけたところで、そういう傾向はなくならないということが伝わってきます。
幼少期の子どもは、自己中心的です。興味のあるものに引き寄せられ、感動しながら生きています。
「〇〇虫がいた!」「さなぎが葉っぱについてる!」「だんごむしが丸まってたよ!」
のように、なんのためらいもなく、見たもの、気がついたことを伝えにきてくれます。
そういう感性を大切にしつつ、子どもの発想を豊かにする関わりを大人ができたらよいのですが、これはかなり忍耐を要します。
大人は時間に追われ、必要に迫られ、余裕をなくしてしまいがちですから。
今日の午後は特別支援教育に関する研修(講演)を行いました。講師の先生から、ハッとする言葉をいただきました。
それは、
「親が携帯見過ぎ問題」
というキーワードでした。
その続きに、刺激の強い動画や情報にさらされている今の状況が、子供の成長を阻害する要因になっているという話でした。
子どもが話しかけてきたときに、「ふーん」とスマホをみながら上の空・・・なんてことはないでしょうか。
子どもが「ダンゴムシがいたよ」と言ってきたときに、何と応えますか?
例えば、「そう!みつけたんだ!」「どこにいたの?」「何色だった?」「大きさは?」
などと、びっくりするだけで、子どもはニコニコして話を続けてくれることでしょう。
(内心、いつ終わるのかなあと思っても、可能な範囲で我慢して聞いてあげてほしいのです。)
「親が携帯見過ぎ問題」
というキーワードでした。
子どもが話しかけてきたときに、「ふーん」とスマホをみながら上の空・・・なんてことはないでしょうか。
子どもが「ダンゴムシがいたよ」と言ってきたときに、何と応えますか?
例えば、「そう!みつけたんだ!」「どこにいたの?」「何色だった?」「大きさは?」
などと、びっくりするだけで、子どもはニコニコして話を続けてくれることでしょう。
こういう絵を描くことができたのは、よさこいを踊って、玉入れをして楽しかったという体験をしたからです。
「見る、感じる、考える」という時間のかかるプロセスが、成長につながっていきます。
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